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当ブログは、立正佼成会広島教会での活動の紹介と、その活動を通しての会員の喜びや気付きなどを紹介しています。
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広島教会
伝道メディア 藤川 裕子

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『佼成』会長法話 平成29年4月号
会長法話「時間の浪費」を拝読して

齋藤教会長講話の要旨

 今月は会長先生より、「時間の浪費」というご法話を賜りました。皆さんとともにかみしめさせて頂きたいと思います。

【 大調和の中で 】
 私たちは、たとえば一日じゅう寝転んで無為に時をすごすことを、時間のむだ遣いといったりします。わずかな時間も惜しんで何かに打ち込む。それが有意義な時間の使い方であり、時間の浪費は人生のむだに他ならない、と。
みんな平等に、一日24時間与えられている中で、むだな時間を過ごしてしまうと、私たちは時間の浪費、殺生をしたと思ってしまいます。

「毎日を最後の一日だと思って生きなさい」とは、古代ローマの思想家・セネカの言葉にあるように一瞬一瞬、むだにしないような心がけで日々を送ることが大事だと昔からいわれています。
 ただ、時間の浪費ということを天地自然に照らして考えると、時間そのものに縛られない、もっとゆったりとした大らかな視点がありそうです。
 仏道とは何かを著したある本に、「日常の起き臥しは、すべて神通妙用と会得する」とあります。


 毎日の生活は不思議な作用の連続でなりたっていて、そんな不思議で自在な活動によって保たれている大きな調和の世界に、われわれは生かされているのだというふうに見ていくと少し違ってくるようです。
 
 宇宙が誕生した不思議。その宇宙で、生命体が存在するための要素を具えた惑星・地球に、人間として命をいただく不思議。そしていま、天地自然の大調和の中で行かされていることの不思議…。・・・
 何もせずに寝転んでいる姿は怠けているようにしか見えないかもしれません。


 寝転んでいる姿を怠けていると見るか。仏法的に見ると、本来すべての現象は、無駄なものはないとなります。まさに見方でありますから、次に備えて、休養しているとプラスに見ると、有意義な過ごし方に見えるわけです。

 欽司郎先生が「父の背中」のご著書(P44~)の中で、書いておられますが、大事な人と会う約束をされていた開祖さまが、お昼休みに居眠りをされていた。寝てていいんですか?の質問に開祖さまは次のように答えられた。大事なお客さんに会うために一番いい顔でいたい。そのために万全の態勢を整えて休息をとっているのだ、と。返す言葉もなく、「さすが、親父!」と心の中で叫んだという内容です。そんなお父さんの言葉から父の偉大さを学んだという話がありました。

 仏法の本質からすれば、人も物もすべての現象も、どれ一つとして、むだなものはないと見えてきます。
 会長先生の年頭ご法話で、私たちは宇宙の一切合切のお陰さまで生かされているとご指導頂きました。自分で整えたものなど何ひとつない、すべてがはからわれている世界だ。そのことがしっかりと認識できると、悩んだり、苦しんだり、争ったりすることはないのです。すべての現象がむだなものはなく、いま必要があるから現れてきて、縁にふれていると神仏の大いなるはたらきを感じとることができるのです。
 
【不思議を観じよう】
 調和の世界に住む私たちにとって何が「時間の浪費」といえるのでしょうか。
私たちはみな「この世に願って生まれてきた」と法華経にあります。しかも、それは、多くの人の幸せのためにと説かれています。つまり、私たちは調和の世界の一員として、みんなが幸せに生きられるよう、その調和を保つために生まれ、かつ生かされているということです。すると、人を傷つけるような言葉や態度、自分さえよければいいといった身勝手な行ないは、何よりもむだな時間の使い方といえないでしょうか。こういう時間の浪費は「命のむだ遣い」とさえいえましょう。


 自分に与えられている役割、自分にしかできない尊い役割がある。だからこそこの世に命を授かって、生かされている。その私たちが自分の大切な役割を認識しないで、自覚しないで人を悩ませたり、傷つけたりする行動をとることが、まさに自分自身の命のむだ遣いだと受けとめることが大切ですと確認をして頂きました。

「人生の無常を痛感すると、いま生きている有り難さがはっきりわかる。その自覚が精進の心を起こさせる」と学んだことがあります。自分がいま生きていることの不思議と、有り難さを自覚しないでただ漫然とすごしているために、私たちは調和を損なうような行ないをしてしまうのかもしれません。

会長先生がおっしゃっているように、自分がいま生きていることの不思議、生かされていることの不思議と有り難さ、「人の生を受くるは難く、やがて、死すべきものの、いま生命(いのち)あるは有り難し。」本当に命のあることが有難い、感謝の出発点だと教えて頂いたわけです。

道元禅師は「生死流転する自分の身心を省みて、自分よりも他の人が先に幸せになるようにと願う菩薩の心を起こしなさい」と書き残しています。無常、さらには絶妙のバランスでこの世を成り立たせている天地自然の不思議さを観じたならば、ともに調和を築くもの者として、お互いに尊重しあい、仲良く生きなさいというお諭しでしょう。

 日々、いろんな変化の中で、また、様々な出会いの中で、常に、目の前のふれあいの中で起こる縁を通して、今自分にできることをさせて頂く。すべてのものとの調和、その人との調和、その人を喜ばせたり、そのことをよりよくするために自分が努力する、常に調和が保たれるようにと努力する、そんな生き方こそが大事な生き方なんだということを確認して頂きました。
 それが、まさに「天上天下唯我独尊」、われ、ひとり尊し、尊い存在としての自分の役割を果たしていく、そんな気持ちになることが大切なんだということであります。
 草花を愛で楽しむ、春を迎える中で、あらためて命の不思議さや無常というものを観じ、しっかりと受けとめて、今目の前のことに精一杯生きる。命をかけて、一瞬一瞬を生きる。そんなことの大事を知ることがこの季節、今大切な時を迎えている私たちですよと、そんなふうに確認して頂きました。
 あらためて、お釈迦さまの誕生のおかげさまで、仏教の尊い縁に出会えている私たち、そして、開祖さまのお陰さまで、この法華経の教えをよりわかりやすく、また、日常生活の中で実践できる教えとして頂戴している私たち。そのことを繰り返し、繰り返し学び、法座という場所で毎日のように尊い教えを繰り返し確認できる機会を頂けている。そんな中で自分を常に見つめながら、また教えに照らし合わせながら、しっかりと自分の役割に気づいて自らの足で自立した信仰者として、まさに自灯明、法灯明の歩みをしていくことが大事であるということをかみしめさせて頂きました。
 何よりも大事なことは、こんな尊い人間としての命を頂いている私たちの役割は少しでも人さまが幸せになるように、この教えをお伝えしていく。創立の月に続いて、教会発足の4月だからこそ、感謝をあらわしていく月であり、その実践行として、教会一丸となって、お導き・布教伝道に取り組ませて頂きたいと思わせて頂きます。今月もどうぞ、よろしくお願い致します。 合掌

齋藤教会長のご講話を聴かせて頂いて

 時間の浪費というご法話のタイトルを見た時、自分自身の日常の時間の使い方を指摘されているように思いました。しかし、そんな表面的なことではなく、大事なことは、自分がいま生きていることの不思議と有り難さを自覚し、どう命を使っていくかということだと気づかせて頂きました。ありがとうございました。
                    文責  Y.F


朔日参り(会長法話) | 12:00:00 | コメント(0)
わたぼうしNo.18(2017年4月号より)
いま、ここ、われ

 春。さわやかな季節を迎えました。春と聞くと、何故か心ワクワクしませんか?上野公園、隅田川、福島の三春…。そういえば、広島の桜の名所は何処でしょうか?光町公園??ゆっくりお花見したいですね。
 4月は、新しいスタートの時でもあります。そういう意味でも、将来に向けての心躍る瞬間ですね。何か、新たなことにチャレンジするのもいいかもしれません。でも時間がなくて…というのが現実でしょうか?
 会長先生は、『仏教は「いま、ここ、われ」の救われの教えである』とお示しくださいます。『「いま」の時、「ここ」の場で、「われ」の自分が、教えを実践していくことが仏道の始めであり、終わりである』と。そして、『実践するということは、「まず人さま」の心にならせて頂くことであり、菩薩として仏道を歩ませて頂くことである』と。さらに、『日々、「いま、ここで、救われました」と感謝し、精進していく。それこそが、釈尊の願われたことです』と。
 何かにチャレンジするにしても、日々の生活に対しても、大事なことは、目の前のことに、精一杯、真心込めて、叮嚀に、ということに尽きるのですね。降誕会、教会発足の月。足元からしっかりと実践に移せる自分でありたいと心新たにしています。
                                             合掌
                                           教会長   齋藤高市
 
                                                                                                      

教会長メッセージ | 10:52:33 | コメント(0)
平成29年4月度主要行事
  ご命日式典・教会行事
  
 1日 (土) 朔日参り・布薩の日    佼成拝読
 4日(火) 開祖さまご命日       法華三部経に親しもう
 9日(日) 誕生祭  降誕会・広島教会発足57周年(いのちに感謝)
10日(月) 脇祖さまご命日
15日(土) 釈迦牟尼仏ご命日・布薩の日   布教感謝の日

  慰霊供養
 6日(木) 広島原爆殉難犠牲者慰霊供養
 9日(日) 長崎原爆殉難犠牲者慰霊供養
11日(火) 東日本大震災慰霊供養
20日(木) 広島豪雨災害犠牲者慰霊供養
29日(土) 6・29 土砂災害犠牲者慰霊供養



お知らせ | 12:00:00 | コメント(0)
『佼成』会長法話 平成29年3月号
 会長法話 『肯定的か、否定的か』 を拝読して


齋藤教会長ご講話の要旨

佼成ニュースで涅槃会を振り返らせて頂き、自灯明・法灯明、一人ひとりが法を灯火としながら、拠り所としながら、しっかりと自らの足で立っていく、歩んでいくことを確認させて頂きました。また、年頭ご法話で会長先生は、「過去でもない、未来でもない、今をしっかりと丁寧に、心を込めて一所懸命に生きることだ」とお話し下さいました。創立の月を迎えて、皆さまとともにご法話をかみしめさせて頂きたいと思います。


 【 前向きの力がわいてくる 】
人は、年齢とともに体のあちこちに支障がでてくるようです。私も体の痛みや、それにともなう若干(じゃっかん)の不自由を味わっていますが、そうした現実からいくら逃れ(のが)たいと思っても、逃れ(のが)ることはできません。


会長先生ご自身が坐骨神経痛で痛い日々を過ごされていましたが、随分良くなられて、聖壇上での足の運びも前よりもスムーズになられ、だいぶ痛みもやわらいできたというお話を伺いました。

 

体の支障だけでなく、私たちは自分の思い通りにならない現実を不満に思い、マイナスのこととして見てしまう傾向があるようです。

 

例えば雨ひとつとっても、雨が降れば野菜農家にとっては恵みの雨だと受け止められるが、今日たくさんの洗濯ものをしようと思っていたり、観光する人にとっては恨みの雨になってしまう。雨は何の考えもなく降る時は降っているし、降らない時は降らないのに、我々は勝手に自分の都合で不足に思ったり、有り難く思ったりしているのです。心は自分の勝手のいいように働き、すべての現象は自分の心が作り出しているんだということです。

 

コップ半分の水で教えて頂いたように、コップの中に半分水があることを「半分しかない」と否定的で見るのか、「半分も入っている」と肯定的に見るのか、そして「誰かが私のために」と感謝で見るのか三通りあるのだということであります。それを選択しているのは、常に、コップの中の水ではなく私たちであり、見ている側、感じている側がその現象を作っているのです。

 

自分が辛かったり苦しかったりしたときは人さまのことをやってごらんと言われたことがあったかもしれません。人さまと触れ合っていると、苦があるのは自分だけではなくて、大変なことがたくさんあることが見えてきます。

私は、「この体の痛みは、同じような痛みをかかえる人を思いやれるいい体験だ」と受けとめています。病気や怪我はつらく、ときには理不尽に思えますが、それを肯定的に受けとめれば、その瞬間からいま・ここの苦しみや悲しみが和らぐばかりか、のちの人生の充実につながるエネルギーが蓄えられると思うのです。

 

今までに味わったことがない痛みを感じているということは、それが治って普通に暮らせるようになったら、今までに感じたことのない有り難い、幸せ、喜びを感じるんだと、痛い最中に楽しみにしているんだという受けとめかたが出来る会長先生ってすごいなぁとあらためて思わせて頂きます。現実の苦とか困ったこと、マイナスに思えることからいったん離れて客観的に見る。否定的ではなく、少し肯定的に眺めて見ようと努力してみると、様々に変化していくんですよということを、ご自身の体験を通しながら確認して頂きました。

 

開祖さまがよく、困ったことが起きると「いよいよ楽しくなってきた」と言われるのが真言だというお話もありましたが、それもまさに、未来をより充実したものに変えていくエネルギーに切り替えられている姿だったのではと思います。

 

【 おおらかに 】

ものごとを多面的に見ると、どれほどつらく苦しいことのなかにも、必ず「有り難い」と思える要素が見出せます。なぜなら、この世に無駄なものは一つとしてないからです。

 

すべては仏のはからいと受けとめていくことが大事です。我々は何一つとして自分がはからったものはない。親から先祖からこの命を受け継いで生を受けた。そして、その後もいろんな人のお陰さま、宇宙の一切合切のお陰さまで生かされている。すべてがはからいであり、今必要なものがちゃんと整っているんだと、必要があるから触れているんだと。まさに縁起の法則から言えば、すべては無駄なものは何もないんだということです。今、この瞬間が一番有り難い瞬間なんだと本来は思えないといけないわけであります。

 

私たちが見たり聞いたり経験したりすることはすべて「肯定、肯定、絶対肯定」する以外に、受けとめようがないということです。どれほどつらいことも人生を豊かにする賜り物であり、すべては肯定すべき感謝の対象にほかならないのです。

 

すべてのことがあるがままに尊い仏性、仏の現れであるということであれば、それは全て肯定すべきものであります。ですから、不平不満や愚痴や不足を言う対象ではないのであり、全てが感謝できるものに変わってくるはずです。すぐに有り難いと感じられる人ばかりではなく、気付く時や度合いは違っていいのです。それが見えるようになる時はきっと来るのですと確認して頂きました。

 

 

ものごとを肯定的に受けとめられないときに、自己をふり返るポイントをおさえてみましょう。人を否定する気持ちが拭えないときには、「やさしさを忘れていないか」。現象を肯定できないときには、「素直さを失っていないか」。この二点です。自分の思い、つまり我でものごとを見るとき、人はやさしさや素直さを見失いがちなのです。

 

ものごとを肯定して見るとは、何事に対しても大らかに楽々と生きるということです。まさに開祖さまの「一乗大らかに、夢、堂々」ですね。肯定的な見方と否定的な見方は同時に存在するわけですが、どちらが幸せかはこのことからも明らかですよね。そして、さらにそれを感謝で受けとめられることが最高の生き方ですと教えて頂いています。

 

今年の年頭ご法話で「有り難し」「有ること難し」その根本は、まず人としての命を今この世に生を受けているということが、何よりも尊く有り難いこと。何もなくても命があるということに感謝できるということが究極の仏さまの教える、お釈迦さまの教える幸せの境地であると教えて頂きました。

また、そのことを受けて、「真因」―悟りに至る道―は我々一人ひとりが内に持っている。真実の原因としてちゃんと持っている。そのことにどう気付くか、肯定的に見るのか、否定的に見るのかで違ってくることを確認して頂きました。

 

思考の三原則①目先に捉われないで長い目で長期的に見ることが大事②物事の一面だけでなくてできるだけ多面的に全面的に客観的に観察する③枝葉末節、言葉や態度にこだわることなく根本的に見ることが大事です。

3月という創立の月に、開祖さまが一人でも多くの人に幸せになってもらいたいというその御心をしっかりと、私たちが我が願いとして菩薩行―導き・手取りに心を向けていくのが大事な役割だと思います。

 

今月も明るく、優しく、温かく、そして明るく、楽しく、元気よく菩薩行の実践をさせて頂きたいと思います!!どうぞよろしくお願いいたします。

 文責者

 私はしょっちゅう否定人間になり、不平不満や愚痴を言ってしまいます。でも、その奥の本当の私は、大事にしたい、丁寧にしたい、みんなの幸せを願っている心があるんだと思わせて頂きました。有り難うございました。     Rie



朔日参り(会長法話) | 10:56:16 | コメント(0)
墨田教会・広島教会平和交流会 3月20日 9時~12時
3月20日 墨田教会・広島教会平和交流会が開催されます。

9時のご供養後 墨田教会少年部の皆さんが、

道場にて慰霊の意味も込められている沖縄の伝統芸能エイサーを披露してくださいます。

是非お越しください。10時からの交流会は少年部さんのみです。



下の動画の最初から50秒のまでに収録されているのが

『エイサー少年倶楽部』のエイサーです。

https://youtu.be/VfgFgMbqmjk


お知らせ | 16:35:54 | コメント(1)
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