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伝道メディア 藤川 裕子

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『佼成』会長法話  平成28年10月号
会長法話 「祈りの先に……」を拝読して

齋藤教会長ご講話の要旨

  今月、10月は、世界平和祈りの週間があり、神仏に手を合わせる機会が多々ある時期ですので、「祈る」とはどういうことであるのかをあらためてかみしめていただき、またその先にあるものとして「祈りの先に……」というご法話をいただきました。

 「祈りの先に」の後に点がたくさんあります。「……」には、会長先生の思いがこめられているのではないかと思います。今すぐには会長先生の思いはわからないけど、一ヵ月たって、11月の佼成ニュースを見る頃には、「……」の意味を会長先生が語ってくださっているのではないかと思うと楽しみです。祈りの先にあるものが大切だと、私たちにしっかり理解してもらいたいという意味で点を六つもつけてくださったのか、考えようによっては六波羅蜜、菩薩の修行ということかなと思わせていただきます。

【 祈りとは 】

最初に会長先生は、「神仏に手前勝手を申し上げ」という古い川柳を引用してくださっています。いつの時代も、祈願し、祈念します。一月一日から、平和祈願、家内安全、健康第一という、いろいろな願いをもって一年が始まり、私たちは折にふれ、お願いごとをし、祈ってきたわけです。「入学試験に合格しますように」、「病気が治りますように」というような祈りは毎日、必ず、どなたかがしていると思います。

神仏に祈ることが私たちには、日常的にとても多い。そのことを受けとめ、開祖さまは「信仰は苦からの救われや願望成就を願って神仏に祈ることと考えられがちです」が、本当は「神仏に祈るだけでなく、仏法すなわち真理に随順した生き方を目ざす」ことが、本当の信仰だと明言されています。
          
 もちろん、神仏に祈ることがきっかけとなって、本質的な救われ、仏法に即した生き方をし、いずれは自他ともに救われる縁になっていくということが大事なのです。

  仏法を信じて身につける、そして、自分が仏になる、成仏ということが私たちの信仰の目的と教えていただいていますから、まさに自分が仏であること、自らの仏性に気づくことがそのことであります。仏教の信仰はその方向にあり、私たちは苦からの救われや願望成就のためにただ祈っているだけでなく、元来自分が仏であることに気づいていくことが大事なのです。自分が仏であると気づけば、救ってくださいと神仏に祈る必要がなくなる、私自身が神仏と一体なんだと気づければ、本来は祈ることはないのです。自灯明・法灯明の教えに基づいて生きていくことが仏道というものです。自らを灯明とし、法を灯明として、真理に随順して生きる、自分自身が、自立した一人の人間として仏さまの道を歩んでいくことが大事で、それこそが仏教の本来のあり方です。

ここで、「りっしんべん」に「てら」で、恃(たの)むという字が書いてあります。普通だと、依頼の「頼」、誰かの力に頼るという字を使いますが、この恃みという字はあてにするという意味があるのだそうです。だから、他者に依存するということではないという意味で、先生はこの字を使われているのかなと思います。

室町時代の坂士仏という医師は、伊勢神宮への参拝にあたって、「心は祈るところのない内清浄で、身はけがれのない外清浄であれば、神の心と吾が心に隔てがなくなる。神と同じであるならば、何を望んで請い祈ることがあろうか。これが真実の参宮と受け給わる」と書き残しています。

 真実の参宮は請い祈るということではなく、神仏と一体である自分自身の感謝を捧げることなのだろうなと思います。
「よく仏さまに参る、神さまに参ると言いますが、『参る』とは、何かをお願いすることではなく、今、私があることに対する感謝をあらわしていく、そのために参拝するんですよ」と、会長先生から以前に教えて頂きました。本来は感謝を捧げる場所であるということなのだと思わせていただきます。

  神仏への祈願を当たり前のように受けとめがちな私たちですが、仏教にしても神道にしても、信仰の本質は祈ることを必要としないところにあるということでしょう。少なくとも「手前勝手な」願いは真の祈りではないことになりそうです。

 仏性ありき、仏と一体だ、仏と同じ尊い私自身だということを仏さまの前で、まさに感謝をし、少しでも教えの如くに自らが実践し、歩んでいく。そして、自他ともに救われていく、そのような信仰の道を歩んでいくという実践の決定をしていくことが本来の意味の祈るということなのだろうと、かみしめさせていただきました。

【 信仰を深める契機に 】

 立正佼成会にあっても、病気平癒とか、本部参拝とか、いろいろな形で、折にふれて、祈願供養させていただくという願いや祈りの風習というものがあります。それが正しい信仰でないかというと、そうともいいきれません。たとえば、苦しい状況のなかで「助けてほしい」と願う人の思いを受けとめたうえで、祈り、願ってあげる、そのことは尊いことなのですと、次の言葉の中に会長先生の深い思いがあるのだと思います。

 「祈り」とは、いのちの最も奥深くから催してくるものといわれます。祈るという文字には「声をあげて神に福を求める」という意義もあるようです。ですから、とくに他の人から発せられる「苦しみから抜けだしたい」という声や思いをまごころで受けとめていくのは当然のことです。

 他の人から発せられる願いや思いをまごころで受けとめての祈願供養、願う、祈るということはとても大事なことであり、当然のことなのですと、そのことの大事も教えていただき、認めていただいているように思います。

 世界平和祈りの週間が始まったころ、私は渉外課にいて、会長先生へのインタビューを担当させていただきました。祈りの週間が近づいてくる中で、会長先生からあらためて、「祈る」ということについてご指導をいただいたことがあります。今月のご法話の前半に書いてあるように、「『祈る』というと、神仏にお願いするような思いがあるかもしれないけれど、仏教徒の祈るということは、まさに、祈願、誓願、お誓いする、自分自身の目標をもって、実践することが必ずセットでついてくる。ただ、祈って、お願いして、拝みっぱなしで、たよるという世界ではなくて、自らが仏さまの教えの如くに歩んでいきますという実践の誓いをして、実践の一歩を踏み出していくということが含まれている。祈るということは、仏教においては、祈願、誓願の中に、その力強いパワーが秘められている。祈るとは、いのちの最も奥深くから催してくるものなのだ。」とご指導いただいたことを、ふと、ここを読ませていただきながら、思い出させていただきました。

 「仏教徒の祈りは力強いパワーを秘めている祈りなのだ。そして、そこには祈りっぱなしではなくて、自らが、自らの目標に向かって歩んでいく決定していく、実践していくということがこめられている。だからこそ、祈るということは最も力のこもったことであり、まず行動の第一歩が祈るということなのだ」と、何十年も前に会長先生から教えていいただきました。

 そのようなことを振り返りながら、ただ単にお願いする、たよるという意味での祈りだけでなく、人さまのために祈るということは尊いのだと確認していただいたうえで、祈りには奥深いパワーがあることを教えていただきました。

 そのことを牧師の奥田知志師が、佼成6月号で、「『共にいるよ』。これが祈りの意味」と述べておられると会長先生は引用してくださっています。人さまの心に寄り添う、悩み、苦しんでいる人に寄り添っていくことも本当の意味での祈りなのです。

 病気のわが子を前にして、「自分の命に代えても助けたい」と願う母親の心、「すべての人が苦から解き放たれるように」と願われる仏さまの大いなる慈悲の心にも通ずるといえましょう。

 人さまのために、わが身を使って祈るということの意味は、ただ単に神仏に何かお願いするという祈りとはちがって、とても尊い意味のある祈りなのだということを、ここでまた、確認していただきました。

 一方で、私たちは祈願の先にある大事なことを、つねに忘れてはならないと思います。    「祈りの先に……」の「……」のところです。
その大事なことは何かと言うと、生老病死は人生につきものである。だからこそいま生きていることの有り難さに気づいてほしい」という仏の願いです。

 四苦八苦といわれるように、生まれたものは必ず、年をとり、やがて病気をしたり、けがをしたりして、最後には死ぬ。生老病死は人生につきもので、誰にも避けられない。だからこそ、いま生きている、生かされているわがいのち、その尊さにどう気づくか、そのことが大事だ。その尊さに、今生かされていることに気づくことが仏さまの本当の願いなのです。過去でもない、また、未来でもない、今をどう尊く、有り難く、大事に生きられるか、そのことに気づくということが大事なのだ、とかみしめて頂きました。

 今日のYさんの説法をうかがっても、支部長さんのかみしめの中でもそうでした。 また、開祖さま生誕会の実行委員長のSさんのお話の中でも、親が子を思う心、母が娘を思う心、またわが子を思う心、だからこそ、ご先祖さまから、親からいただいたわがいのちを尊び、今自分のできることに使わせていただこう、わが身を捧げていこうと思うことが、まさに神仏の慈悲の心とひとつなのだと思わせていただきました。

 苦から抜け出したいと祈る人に、「法座に座ってみませんか」「祈願供養をしましょう」とお伝えし、ときには同じ悩みに苦しむ人のもとを一緒に訪ね歩いたりもします。それらはすべて、いま申しあげたこと、つまり仏の願いに気づくための、いわば方便です。  

 立正佼成会の基本信行のひとつである朝夕の読経供養も、その実践を通してつねに仏さまのお心にふれる、目で読み、声に出して、耳で聞き、そして心に感じる、そのような御供養のくり返しの中で本仏の願いをしっかりと確認していく、そして、自灯明・法灯明の教えを基本にして生きるための行法なのだと確認させていただきました。

今年の年頭法話の中で、会長先生はあらためて、自灯明・法灯明ということを確認してくださり、開祖さまが一番願われていることは何かをご指導くださいました。

 それは一人ひとりが自立した信仰者として歩んでいってほしい。そして、本当の幸せ、本当の生き方は自他ともに救われていくことだ。そのために、わが身を法に照らし合わせ、また、自らが自分たち一人ひとりの灯(ともしび)でいい、人さまの灯でなくて、自分の身の丈に合った、自分自身の尊さの中にあるその役割に気づいてわが身を使っていく、そんなふうに生きるということが大事なのだ。そのことに気づくために、朝夕のご供養も、人さまのために祈るということも行法として意味があるのだと思わせていただきます。

 お願い参りも祈りも、それら神仏と向きあう機会はすべて、仏さまが「大切なことに気づくように」と願って、与えてくださった契機です。

 だから、仮に願望成就のようなお願い参りであっても、そのことを通して、神仏と向きあう機会をただいた、そこから、さらに自分自身が一歩進めて、自立した信仰者としての本来のあり方に気づいていき、今あるいのちの尊さに気づいていく、今をしっかりと生きていく、そんな受けとめ方、そんな決定ができることが大事なのだと、教えていただきました。

 そのような日々のくり返し、くり返しの生活の中で、ともに信仰を深め、そのことを大事にしていくことが十月の「祈る」ということです。出会う、ふれあう機会がある中で、しっかりと私たちが本来の自らの役割に気づいていく、そのような月にしていきたいと思わせていただきました。

 真理を認識して感謝で生きる。言葉では、いつも教えていただいていますが、なかなか、そんな簡単なことではありません。しかし、今日のお説法にもありましたが、日々の生活の中で自分ができることを精一杯させていただく、今、目の前のことに精一杯取り組んでいくことはできます。自分自身の「いのち」、それは昨日もあったし、今日もあるし、明日もあるかもしれないけど、今、この瞬間にある、生かされている「いのち」を、人さまのため、地域のため、世のために、どうわが身を使える自分になっていけるのかということが大事です。そして、祈りの先にある私たちの尊い実践を積み重ねていくことが、開祖さまへの最高の報恩感謝になるのだと思わせていただきます。

 開祖さまへの報恩感謝、また、弟子にしていただいた一人ひとりの感謝の実践行として、一人でも多くの方にこの教えを伝えていく、そのことが最高の恩返しだと思わせていただきます。皆さんと共に、精一杯、一人でも多くの方にこの教えを伝えられるようなな実践をさせていただきたいと思います。

 また、今月も一ヵ月間、皆さまとともに、明るく、楽しく、有り難く、修行させていただきたいと思います。どうぞ、よろしくお願い致します。 合掌





朔日参り(会長法話) | 15:00:00 | コメント(0)
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