■カテゴリ
■ご 挨 拶

訪問いただきましてまことにありがとうございます。
当ブログは、立正佼成会広島教会での活動の紹介と、その活動を通しての会員の喜びや気付きなどを紹介しています。
記事を読んでいくうちに興味がわきましたら、 是非コメントを頂きたいと思います。
運用担当者
広島教会
伝道メディア 藤川 裕子

■最新記事
■リンク
■RSSリンクの表示
■最新コメント
■QRコード

QR

■月別アーカイブ
『佼成』会長法話 平成28年2月号
会長法話『私心を去る』を拝読して

齋藤教会長ご講話の要旨
 
【 愉しく生きる秘訣 】
 “楽しく”とは異なり、ここで使われている“愉(たの)しく”という漢字は、心からしこりがとれて、心の底からわだかまりのない状態、魂から喜ぶという意味の愉しいです。心の成長を伴うような“愉しい生き方の秘訣”をお示し頂いております。

「はい」と素直に返事ができることは、日々を愉しく生きる秘訣の一つといえましょう。

 三つの実践の一つとして、人から名前を呼ばれたら「はい」と返事をする、靴をそろえる、イスを整える、そういう当たり前のことを当たり前にできることが大事なのだとお示し頂いています。心が平らな時には、何の迷いもなくできます。でも、「あの人苦手だな」と思うとなかなか素直になれない、まさに私心があると素直に実践できない。でも、「はい」と言えるのは私心がない状態ですと、論語の言葉を引用してくださっています。
素直になることが、日々を愉しく生きる秘訣であると、素直であることの大切さを教えて頂きました。

「おはからい」と受けとるのは私心を去るスイッチを入れるようなもので、それによって法に順(したが)う無理のない、楽な人生が歩めるのです。

 自分に都合のいいことはありがたいと受けとめられます。しかし、仮に不都合なことや嫌だなと思うことのなかに、「神仏のはからいの中で生かされているのであれば、必ず仏さまのお慈悲はある」、「私自身をより成長させたいという仏さまのお慈悲がそこにある」、このように「おはからい」と受けとめられることが「私心を去る」ヒントです。このことが、私心に邪魔されず、心が自然に素直になれるポイントだということです。

先ほど説法された方は、ご主人の病気を目の当たりにして、「それでも今できる事を精一杯させてもらおう」「5%の生存率を前向きにとらえていこう」と受けとめられました。つらいこと、苦しいこともはからいごとだ、それを前向きに受けとめていこうというその心は、まさに私心を離れていた状態だったのだと思います。

【 成功も安らぎもそこから 】

 会長先生は、実業家の稲盛和夫さんの著書『経営の極意』から次のように引用されています。
稲盛さんは、「動機が善かどうか」「私が今しようとしていることの動機が正しいか。正しければ絶対大丈夫なのだ」「そこに、自分が、自分がという私心がないか」、そのことをいつも大事にして自分に問うていらっしゃった。その動機が善であって、私心がなければ、どんなことでも必ず成功すると確信されて事業に取り組んでこられた。「私心を去る」ということが、根底にあるのだと学ばせて頂きました。
 「私心を去る」ということが法、真理と一体になっているということを手本として示してくださいました。菩薩行の精神に通ずる、それは公のために働くというところにあるのです。
いつでも「まず人さま」、民のためにという心でさせもらおうと、動機が善であったからこそ、俺がもうかればいいという発想ではなく、すべての人が喜んでくれるような心で取り組んだからこそ、いろいろな事柄がうまく展開していった成功の例を学ばせて頂きました。

 松下幸之助さんの「商売は世の多くの人を相手に行う公のもので、私心にとらわれてはならない」という言葉のように、公の人々、多くの人々のためにする事業が、まさに経済であり、無私の心が経営の基本であり、成功の鍵でもあると、教えてくださっています。
 それは、まさに仏教精神そのものなのだと確認してくださっています。

 ある回転ずしの社長さんが、もうけようとネタを少し薄くしたらお客さんが減った。どうしたものかと考え、そこでお客さんに喜んでもらおうということに気付かれ、ネタを少し厚くしたら、好評でお客さんが来てくれ、事業がよりよく展開していったという話を思い出しました。お客さんに喜んでもらおうという経営の心、法の心に合致したので喜ばれたのです。「まず人さま」と教えて頂いていること、教えを中心にしていく事が大事なのだとかみしめさせて頂きました。

 いつも教えて頂いているように、人の心に寄り添っていく、話をよく聞いてあげて、思いやっていく、そんな日々を実践できることが、教えを灯火として、自らがそれぞれの置かれている場所で生きる菩薩行なのだと、かみしめていくことが大切だと思います。
周りの人のため、家族のためと思え、私心を離れている状態が持てるといいなと思います。また仕事をしている皆さんは、お客様のため、商売相手のため、相手が喜んでくれればという、その心でふれあうことが大事なのだろうと思います。

 さらに、私たちは、仏さま、開祖さまが喜んでくれたらありがたいなと、ものごとを受けとめていけたら、もっとすばらしいと思います。常にそのように、ものごとに取り組んでいけたら、もう少し楽に私心を離れることができるのではないか、そのように思わせて頂きました。

 今年は、お釈迦さまの教えに帰っていく、正しいことを正しく、大事なことを大事に伝えていく、そのことが大切です。私たちは教えを繰り返し繰り返し学び、確認をしていく。わからなかったら、迷ったら、また教えて頂く。自らがしっかりと素直な心で実践できるよう修行していく。いつでもまわりの人のため、「まず人さま」という菩薩の心で実践をしていくことが、平安な心、涅槃の境地を生きながらにして感じることができる、そんな生き方になるということです。
 愉しく生きる秘訣とは、まさに素直になって、すべてのことがはからいごととして信じられる、そんな私になっていくことである、そのことをまた確認させて頂きました。

 2月は涅槃会の月です。お釈迦さまがお亡くなりになるときに「すべての物事は変化している。だからこそ、常に変化に合わせて努力していくことが大事だ」「多くの人のお陰さま、支えられているからこそ、感謝の心を忘れない、そのことが大事だ」自灯明・法灯明ということも確認してくださり、法を灯火とし、自らが灯火となって、自らの足で歩んでいく、そのことが大事だと確認くださったのです。
 自灯明・法灯明の歩みができることが、尊い生き方である、そのことをしっかりと一人ひとりが確認させて頂き、年頭ご法話に示されたお心を私たちは片時も離さずに、そのことを土台にしながら、毎月の会長先生のご指導を、その月の指針として歩んでいくことが大事だと思います。


朔日参り(会長法話) | 10:20:01 | コメント(2)
コメント
はいと受ける
立正佼成会会員のものです。
よく、ハイと受けなさい。とご指導を頂くのですが、すべての行事にハイと受けて参加しなさい、のようなふうに聞こえてしまい、素直に受けられません。ここで言うハイと受けるとは、教会運営に都合のいい解釈と見てしまうこともあるのですが、どう受け止めていけばよいのでしょうか?
2016-02-08 月 23:19:00 | URL | 田中敬祐 [編集]
Re: はいと受ける
> 立正佼成会会員のものです。
> よく、ハイと受けなさい。とご指導を頂くのですが、すべての行事にハイと受けて参加しなさい、のようなふうに聞こえてしまい、素直に受けられません。ここで言うハイと受けるとは、教会運営に都合のいい解釈と見てしまうこともあるのですが、どう受け止めていけばよいのでしょうか?

田中敬祐さま

2月8日付のコメントありがとうございました。返信が遅くなり、大変申し訳ありませんでした!
“「ハイと受ける」をどのように受け止めたらいいのか?”ですが、私も田中さんと同じように感じていたことがありました。「ハイと受けなさい!」では、押しつけではないか?何でもかんでも「ハイ」と受けるのは、お人好しではないか?等々と思っていました。
その後、理解できても、できなくても、とりあえず「ハイと受ける」ということが、「やるか、やらないか?」「参加するか、しないか?」「受けるか、受けないか?」以前に、「我をとるためには、素直になることが大事なのだ」ということを学んでから、納得できるようになりました。
庭野日鑛会長の著書「心田を耕す」の中に、『「我」の枠を外す』という項目があります。その中の「自分中心の私たち」で、教育者の竹下哲先生の「いのちに出会う旅」から、次の詩を引用してくださっています。
「遊んでいるときには せまいせまいというて 遊んでいる
 朝会のときに石を拾わされると 広い広いというて 拾うている」
続けて少し、会長先生のお言葉を引用させて頂きます。
同じ運動場で、広さが変わらないのに、遊んでいるときは狭いと思い、「石を拾いなさい」といわれると、急に広く感じられてしまう。人間がいかに自己中心に考え、自分勝手にものごとを見ているかが、表現されています。
仏教は、私たちの我執・自己中心性をとり払ってくれる教えです。「我執」とは「我(われ)」へのとらわれです。自分勝手ということです。
私たちが悩んだり苦しんだりするのは、自分の思いどおりにならないことにぶつかったときです。「人生は思いどおりにならないものだ」と諦めれば、広い視野が開けていくのですが、思いどおりにしたいと欲するため、ますます苦しみが深くなるのです。この「何でも自分の思いどおりにしたい」というのが我執です。
このように、我を張ると、自分自身の生き方をドンドン狭くし、周りと不調和を起こし、ついには自らを不幸にしていくのです。
そのために佼成会では幹部さんが「我を捨てなさい」「素直になりなさい」と、指導します。「ハイと受けなさい」も同じ意味合いで使われていると思います。
「冗談じゃない、我を捨てたら自分がなくなってしまうじゃないか」と反発される方がいるかもしれません。しかし、「我を捨てる」「素直になる」「ハイと受ける」ことは、決して自分がなくなることではありません。我を捨てることによって、私たちは素直になることができ、その結果、仏になる心=「仏性」が現れてきます。すると自分の言葉や行いが相手を中心にしたものに変わり、そこに調和の世界が生まれ自然と周りを生かす働きができるようになってきます。この周りを生かすということが、自分を本当に生かすことであり、そこに幸せが生まれるのです。つまり、我を捨てることが幸せになる早道なのです。
田中さんに幸せになっていただきたいとの願いがあって、我を取り、素直になるための修行として、「ハイと受けなさい」とご指導くださったのだと思います。
さらに、田中さんもご存じのように、佼成会の教えは、誰かのためのものではなく、もちろん教会運営のためのものでもありません。信仰の目的は、自らの人格完成と、世のため人のための菩薩行のできる自分自身になるためにさせて頂くものですね。ですから、決して教会運営に都合いいような意味ではなかったと思います。
しかしながら、もし、教会運営に都合のいい解釈と思わせてしまったとしたら、大変申し訳ないことだと思います。その幹部さんに代わって、お詫びさせて頂きます。ごめんなさい。
以上、私なりの受け止め方かもしれませんが、田中さんの疑問に少しでもお役にたてたならば幸甚に存じます。要領よくお答えできず、長々となってしまい申し訳ありませんでした。また何かお気づきのことがあったら、教えてください。今回は、私も改めて学び考えさせて頂けたことに感謝申し上げます。合掌 教会長 齋藤高市
2016-03-05 土 16:32:38 | URL | rkk.hiroshima [編集]
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

FC2Ad