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広島教会
伝道メディア 藤川 裕子

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『佼成』会長法話 平成27年11月号
会長法話『軽んじない』を拝読して
鈴木教会長ご講話の要旨 
 今月は「軽んじない」というご法話です。会長先生は、年頭のお書初めに「不軽」軽んじないと書かれました。9月16日広島教会にご来道頂いた時も書をご揮毫下さり「不軽」と書いて下さいました。会長先生は、この一年を通して、この「軽んじない」ということを大事にされていて、佼成会の年末にあたる11月にもう一度、その心をかみしめようということで、今月は「軽んじない」というご法話を頂戴したのではないかと思います。

【みんな「仏の御いのち」】
 なぜ人を「軽んじない」ことが大切なのかを考えてみようということです。
道元禅師の「悉有は仏性なり」、この「悉有」は、個々の人間が仏性を持っているというよりも、人間だけでなく全ての存在が仏性そのもの「仏の御いのち」の現われであると、道元禅師は言われているのです。

 西洋のものの考え方は、自分と周りの存在は別のものと認識しています。そこから対立が生まれます。ですから、病気になると、抗がん剤等を使い、病巣をたたきます。東洋的考え方は違います。万物は一体である、だから敵対視するのではないと…。菌には、腐敗する菌だけでなく、醸造などお酒になったりする菌もあります。我々は細菌によって生かされているともいえます。腸には多くの常在菌がいますが、善玉菌の中にはボケを治したり、糖尿病を治したりする素晴らしいはたらきのあることが、最近ようやくわかってきたようです。

 だから、あらゆる存在が仏さまのいのちの現われだとすると、無用なものとか無駄なものは、本来ないのです。ただ我々の心が良いとか悪いとか、損だ得だといって、つまらない分別ばかり働かせて、悩んだり苦しんだりしているのです。
如来寿量品に説かれているように、すべては仏の慈悲の現われというのが真実なんですね。そこが信じられたら、この世は寂光土ですよね。
 悟った人から見ると、すべては仏の慈悲の現われですから、自分だけが仏ではない、あらゆる人、あらゆる存在が仏の現われなのです。

 人間を「軽んじない」ということは人間を尊敬するということです。尊敬するためにはどうしたらいいでしょう。頭では仏性があると分かっていても、イヤな人はイヤ、顔を見たくないという人もいるでしょう。私は〈どうしたらいいんだろう〉と思った時、「美点凝視」(びてんぎょうし)という言葉が浮かんできました。美しいところをきちんと見つめるということです。どんな人も良いところ半分、悪いところ半分ある。その良きところを見つめていく訓練をしていけば、おそらく会う人会う人が尊敬でき、好きになれるのではないかと思いました。

 自分なんかと思うその心は、実は仏心のはたらきであり、みんなお釈迦さまのように、開祖さまのようになりたいのです。でもなれない自分がいて、ともすると自分を責めたりするけれど、そうではなくて自分自身の足りなさに気づくということ、それ自体が仏性のはたらきなのだということです。
いろんな人が懺悔したり愚痴を言ったりする話を聞いて、ダメな奴だと思うのではなく〈ああ、素晴らしい仏性のはたらきだなー〉〈おのれのやっていることが反省できる。そのこと自体が仏性のはたらきだ〉というように、法座でも相手の方を見ることができたら素晴らしいですね。自分はだめだと思う心も、実は、仏性の現われだと見られるようにすることが大事です。

 華厳経の「初発心時 便成正覚」という言葉は、仏さまの教えに従って、仏さまと同じ心境になろうというのが発心、初めてそういう発心を起こした時に、便成正覚(べんじょうしょうがく)、実はもうそこに悟りがあるのだということです。

【「狎(な)れる」を戒める】

人を「軽んじない」ために大切なのは何か。それはどれほど親しい人に対しても、けじめを忘れず、礼を欠かないこと、つまり「狎れる〈なじんでうちとけすぎる〉」を戒めることです。 

 「狎れる」は、もう一つ〈親しみすぎて礼を欠く〉という意味もあります。夫婦とか家族の中の戒めですね。ご主人が奥さんに「おい」「お前」「あれ持ってこい」などと言っていませんか。大好きな〇〇さんと呼んでいますか。名前を「さん」付けで呼んでください。相手の人格を尊重するために、私は成人した子供も「さん」付けで呼んでいます。

できるだけ人の長所を見て、それを称える。もちろん、合掌・礼拝の精神を忘れない。
こうしたことが、調和のとれた人間関係を築いていきます。
最初は、心がともなわなくても、いつもかたちで示していると、それは自ずから心に影響をおよぼし、常不軽菩薩のように「つねに軽んじない」姿勢が自分のものになります。


仏教、仏道はかたちから入って心をととのえようという基本姿勢があります。
 身心一如(板書)
身体と心は一つということです。姿勢や呼吸をととのえていくと心もととのう。
それを禅宗では調身・調息・調心といいます。
広島教会のスローガンに「合掌・礼拝・讃歎そして仏性開顕」とあるように、開祖さまはいつでもだれに対しても合掌でしたね。つねに合掌していると「軽んじない」姿勢が身についてくるということです。

とはいえ、相手を尊重しようと思えば思うほど、忍受しなければならないことが出てくるでしょう。
一切衆生は本来、仏といっても、一足飛びにお釈迦さまや開祖さまのようにはなれません。仏になるためには、六波羅蜜という修行があるのです。六波羅蜜は他者の救済、他のために我々のいのちをどう運ぶのかということを教えています。他の人に関わりを持つと色んなことがある。娑婆は忍土ともいいます。耐え忍ぶ、忍辱の修行が大事です。別の言葉でいえば、許す心ということですね。周りの人からされたことを許せるかどうか。すべてのことを許せるようになればすばらしいと思います。

合掌・礼拝に徹した常不軽菩薩に倣い、朝には「合掌・礼拝の心で一日をすごそう」と誓い、夕べには「私はきょう、人を軽んじなかっただろうか」と省みて、明日に向かう。
 人間の心の潜在意識を浄化しないと人間はなかなか変わりません。ですから、朝うつらうつらしている時に心に思うと潜在意識も変わるといいます。私は、「合掌・礼拝・讃歎、そして仏性開顕されますように」とお布団の中で、朝目覚めるころ、寝ようとする前に、唱えています。
 開祖さまご著書『人間らしく生きる』の中に、「今日はいいことがあるぞ。きっといい日だ。素晴らしい日だ。」「よし。万事思うように進む。仕事はうまくいく。自分にはそれだけの能力が与えられているのだ!」こういうことを自分自身に言い聞かせるのです。
(P.25.26)とあります。私は朝起きるとき、学生時代からずっと唱え続けています。よき言葉は、繰り返し、繰り返し言うと潜在意識に染み込むのです。

ご法話も一回読んだだけではわからない。私は教会長会議など合わせて10回位は読ませて頂いています。何事も繰り返しが大事です。
今月もどうぞ、よろしくお願いします。


朔日参り(会長法話) | 15:30:23 | コメント(0)
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