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広島教会
伝道メディア 藤川 裕子

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『佼成』会長法話 平成27年10月号
会長法話『信仰のこころ』を拝読して

鈴木教会長ご講話の要旨

【人間として生きる】
 「私たちは、自分の思いどおりにならないことがあると、悩んだり嘆いたりして苦しみます」
 一般に人が感じる幸せとは、「福禄寿」という言葉に表せます。「禄」は必要な時に必要なお金がまわってくるということです。私の母は、女手一つで男の子三人を皆大学に行かせてくれました。母は主任のお役一筋でしたが、貧しくてもなんとか食べていけたし、必要な時に必要なお金が入ってきたようです。まさに「道心のなかに衣食あり」ですね。
 「寿」は健康で長寿を迎えることです。「福」は、地域、職場、家庭の中で円満なる人間関係が持てることです。福がなくて、いつも周りの人とギクシャクしているとすると、その原因は自分自身にあるということですね。人間は「自分さえよければいい」という気持ち、ないしは「自分の思いどおりにしたい」という心がどこかにあるのです。

 お釈迦さまは二千五百年前に「苦しみというのは、思いどおりにならない状態だ」と説いておられます。我々の本体はこの肉体ではなく、我々は仏さまと同じような本質を持っている。けれども肉体に宿った瞬間に、肉体が大事になって、色んな欲を持ち、自分の思いどおりにしたくなるのですね。子供も親の思いどおりにしたい。だから自分の思いどおりにならないと怒ったりするのです。だから、会長先生は「私たちは、自分の思いどおりにならないことがあると、悩んだり嘆いたりして苦しむ」と仰っています。
 悩みや苦しみが思いどおりにならないとき、どうすればいいのか。自分の思いどおりではなく、まず相手の思いを受けとめ、相手の立場に立って考えてみる。すると調和の世界が出てきて、苦しみは無くなる。まず人さま、菩薩の心になることが肝心です。

「自己を中心にして人やものごとを思いどおりにしようとする意識を改めてみると、環境や条件は変わらないのに、それまでの悩みが嘘のように消え、逆に喜びの種になることさえあります」
 
 ある教会長さんの事例です。信者さんが、家の前の狭い道を大型ダンプカーが何台も通ることへの不満や怒りを法座で話しました。それを充分聞いた後で、教会長さんは「ところで、あなたは、その運転手さんの気持ちになったことがありますか。その人にも家族がいるんだよ。そんな狭い道の運転は、とても気を遣い、苦労しているかもしれないんだよ」と言われました。それを聞いて、その方は、「そうか。そういえば運転手さんも大変だな」と気づいて、すっきりして帰ったそうです。その数日後、その道に「大型車両通行禁止」の看板を行政が立てて、車が通らなくなったと報告にきたそうです。文句を言ってたときは役所も動かなかったのに、相手の立場にたって「相手も大変だ」と思えたら環境が変わったのです。自分の思いどおりにしようとすると怒りや不満ばかりですが、相手の立場になって、その気持ちが変わっただけで、現象が変わるというのです。

 だから、開祖さまは、「自分が変われば環境が変わる」と教えてくれたのです。開祖さまは、仏さまのようなお方でしたから、いつも相手のことしか考えていらっしゃらなかったのではないでしょうか。ですから、どこにいかれても、この世界そのものが寂光土であると感じておられたのではないかと想像します。もしこの世界が寂光土でないとすれば、それは誰かが悪いからではなくて、自分の思いどおりにしたいという気持ちを、いつまでも引きずっているから、幸せな環境がまわりに出てこないのではないでしょうか。どうでしょう?

このような意味の心の自由を追求し、人間としていかに生きるかを教え導くのが宗教で、それを実践していくのが信仰ではないでしょうか。

 信仰の本質を実行しようとすると、先ほどの事例のように、現世利益も同時に頂けるんだよというのが、佼成会の素晴らしいところではないでしょうか。病気を治したいとか、こうしたい、ああしたいという思いで、多くの人は信仰に入ります。それが満足したらもういいというのでは、人間としての成長はありません。宗教の本質を佼成会は教えて下さっています。ありがたいことです。

救いを求めずにはいられないときが、だれにもあると思います。そのとき私たちは、心から相手を思い、寄り添うことができればと思うのです。

 ですから、〈相手に何とか幸せになってほしい〉〈相手が苦しみから逃れてほしい〉と思う慈悲の心、これが大事です。相手が困ったにはその慈悲心を発動するということです。

【後ろ姿で説く】
 若い人たちは、宗教に対する不信感を持っていると思うのです。そういう人たちに教えの正しさをどう伝えるかというと、開祖さまの著述にあるように、「ほんとうの説法は自分の『後ろ姿で説く』ことであるのをわすれないでほしい」ということですね。

 会員さんの中には、家族が信仰を受け継いでくれないという家もあります。それは、自分は夢中になって信仰しているが、家庭の中で尊敬されるような言動、立ち居振る舞いをしないからではないでしょうか。法のありがたさということを常々家族にわかりやすく説いているでしょうか。そういった努力ができず、ただ「忙しい、忙しい」といって、帰るとバタンキューと寝たり…。それでは家族は理解するどころか反発します。後ろ姿で法を説けたらすばらしいですよね。

 宗教はどうしても我が神様が一番尊いと考えがちです。でも開祖さまは「万教同根」、「教えや信条は、宗教によって皆違うけれど、その根本は一つである。だからどの宗教の人も拝み、お互いの理解を深めるよう宗教対話をしましょう」と教えて下さっています。我々も佼成会だけが絶対正しいというのではなく、それぞれの宗教の素晴らしさも認められるようになりたいと思います。

会長先生は、「どうしたら多くの人を仏道に導けるだろう。どうしたらみんなが仏の境地に達し、幸せになるだろうかと、つねに念じている―このように、仏の願いを自分の願いとして歩むことを誓願しているのですから」とあります。

 皆さん、今までそんなふうに考えたことがありますか?いつも人に会うときに「どうしたら、その人が本当の幸せになるか」という仏さまの願いをわが願いにしてきましたか。いかがでしょうか?なかなかできることではないけれど、朝夕のご供養のときなどに、この文を紙に貼りだして読んで「このように仏の願いを自分の願いとして歩むことを私は誓願します」と言ってみてはどうでしょう?

人を思いやり、素直で謙虚に日常生活を送ることこそ、私たちにとって大切なことといえるのです。

 やはり自分自身が本当に信仰を持ち、後ろ姿で導けるようになる、常に素直で謙虚である、そういう生き方の中に、まわりの人たちが「ああ、あの人は違うなあ」、そういう思いにいたって、導きもできるようになると思います。そのことを開祖さまは、ずっとお説き続けて下さっていたのだと思います。
 10月4日は開祖さまの入寂された日です。開祖さまは回向してもらう立場ではなく、亡くなられて霊鷲山で私たちを導いて下さっているので、年回供養はしておりません。でも、お亡くなりになられて16年たった今、改めて開祖さまの願い、開祖さまがどのように生きられたのかを学んで、開祖さまの願いをわが願いとして生きるようにと、そういう意味も含めて、会長先生は「17回忌」という表現を使われたと思うのです。

 忙しく行事に追われるのでなく、そのご縁を通して、改めて我々が、仏さま、開祖さま、会長先生のお心をきちんと信受させて頂いて、今月のご指導にあるように、後ろ姿で説き、一人でも多くの方を導くという仏の本願に沿った生き方をさせて頂きたいと思います。

 来たる10月11日には広島教会発足55周年記念式典が産業会館で行われます。多くの皆さまとお会いしたいと思います。


朔日参り(会長法話) | 16:13:10 | コメント(0)
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