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当ブログは、立正佼成会広島教会での活動の紹介と、その活動を通しての会員の喜びや気付きなどを紹介しています。
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広島教会
伝道メディア 藤川 裕子

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『佼成』会長法話 平成29年5月号
会長法話 「させていただく」を拝読して

齋藤教会長講話の要旨
 今月は会長先生より、「させていただく」というご法話をいただきました。

【 無限のつながりのなかで 】
 
私たちは、無限のつながりの中で生かされていて、縁起の教えを頂いるわけですが、「させていただく」について、工学博士、ロボット博士として知られる森政弘先生からつぎのように教えて頂きました。

「仏教では『させていただく』という受け止め方をするが、それは、なにごとも自分の力だけではできないからである」

ロボットというものをつくることによって人間というものを考え、科学と仏教を一緒に考えてこられた森先生らしいおことばです。

 たとえば、自分の力で立っていると思っている人も、「じつは大地の支えや重力があるからであって、何をするにしてもただ一つの原因とか、自分だけの力によるのではなく、他の力などによって可能なのである」というのです。 

 会長先生の年頭ご法話の中にも太陽の光、水、空気、動植物など、宇宙の一切合切のおかげさまで私たちは生かされているんだというお話がありました。また、私たちは自分の力で生きているのではなく、両親や祖先はもちろん、周囲の人々のおかげさまで、生かされている。そして、さらに、手が動く、歩ける、食事ができる、呼吸ができる、話せる、眠れるなど、すでにめぐまれていることがたくさんあるということをお話し下さいました。

 本当に、あらゆるもののおかげさま、他の力によって生かされている、自分だけの力ではないんだということをロボット博士も確認してくださいました。

 曹洞宗の青山俊董師は、そのことを「世界の一切のことはどんな小さなことも漏れることなくぶっつづきに、あいかかわりあって存在する」とわかりやすく説かれています。 根が土の中で栄養を吸っているから花は咲く。ものごとはすべて、かかわる縁の作用で生じたり滅したりするーすなわち縁起ということです。このような宗教的な世界観から生まれた表現が、「させていただく」なのです。
 ある教会長さんが、文化庁の中に「させていただく」ということばが定義されていて、相手(他者)の許可をいただいてすることを、「させていただく」、もっと言えば、神仏にお仕えさせて頂くという意味合いもあるということを分けてくださいました。また、日常的に使っているが、神仏に仕えていくという心をあまり意識したことがなく、そういう気持ちが抜けていたなとお話しくださいました。

 欽司郎先生が、よく縁起の話をしてくださる時に、「持ちつ持たれつ、すべてが支えあっているということなんだ」とおっしゃっていました。持ちつ持たれつの世界、それは、宗教的世界観からいうと、「させていただく」ということなのであります。

 この言葉には、「生かそう、生かそう」とはたらいてくださる大いなるものに対する、感謝の念が含まれているといえます。「おかげさまでさせていただくことがができます」という気持ちです。

 また、「させていただく」は、自分の行ないを謙虚に表現する場合にも使います。そのとき、口にする側と聞く側に、気持ちのずれが生じることもあるようです。「表面的にはていねいだが、思い上がった物言いに聞こえる」とか「謙虚なようで自己をアピールしている」と受け止められることもあるのです。そのような誤解が生まれるのなら、より主体的に「させてもらいます」と伝えるほうがいい場合もあるように思います。

 「あらゆるもののおかげさまで」という気持ちから、自然に「させていただく」といえる私たちでありたいものであります。

 会長先生からその様な目標も示して頂いているのだと思わせて頂きました。

【 仏さへの感謝 】
 私たちは、ふだん何気なく「させていただきます」と口にします。それは、「おかげさまでとりくむことができます」「させていただけることがありがたい」という気持ちのあらわれです。この「おかげさま」や「ありがたい」を忘れてしまうと、「している」とか「してやる」といった自我が顔をだします。

 「させていただく」の前後に「おかげさまで」や「ありがたい」ということばを一緒に言わせて頂き、くり返し、くり返し、形をととのえていくと、縁起観ですから、自然とおかげさまで有難いという縁に自分自身がなっていくのです。実践しながら、身につけていくことが大事なのです。 
 たとえば、今日もお当番に来させていただいてありがたい。本部参拝のおかさまで、元気で本部に行けることがありがたい。
           
「おかげさまで、させていただけることがありがたい」と口にしていくと、縁起の教えがしっかりと胸に刻まれ、薫習、薫染と教えて頂くように、少しずつ、少しずつ身についてきて、そして、いつしか、いつでも心からそう言えるようになるのではないでしょうか。理想をいうと、そうなれば「させていただく」その感謝の実践は、仏・菩薩の遊戯三昧のような、とらわれのないうれしさ、楽しさにつながりそうです。

 そして、「させていただく」ことがうれしく、楽しくなって、仏・菩薩の遊戯三昧のような、条件とか、環境とかではなく、自然とうれしいな、楽しいなそんな思いにつながるようなとらわれのない境地になっていくことが理想であると、確認して頂きました。

 心から「させていただきます」といい、神仏への感謝の念をもってとりくんでいることでも、それが必ずしも喜びや楽しさに直結しないケースもあるでしょう。つらい、いやだ、苦しいという気持ちになってしまうこともある。愚痴や弱音を吐きたくなるときがあるのも自然なことですよ!と、会長先生はいつもやさしく私たちを救ってくださいます、その様なお心を感じる一節ですね。

 だからこそ、信仰をもつ私たちは、日頃の生活の中で仏さまへの帰依の念を養い、「大いなるものに生かされている自分なのだ」という自覚と感謝に目ざめることが大事なのだと思います。

 すべてがはからいの中にある。生きとし生けるものすべてが仏さまと同じ尊い存在だ、仏性ありきということをしっかりと、くり返し、くり返し学び、仏さまの、また、教えの尊さに、帰依の念を養っていく。生かされている尊いいのちであるということを自覚し、宇宙の一切合切、ありとあらゆるもののおかげさまと感謝をしていく。日々の生活、修行、精進を通しながら、自覚と感謝を新たにし、そのことに目ざめていくことが大事なのです。

 あらためて、今年は会長先生より「有り難し」という心になれることが大事であり、宇宙の一切合切に、生かされている、そして、おかげさまのなかに有り難しを感じていくことが大事だとご指導いただいています。

 会長先生は、今年の年頭ご法話を毎月のご法話の中でより細かく、かみくだいて、私たちにお示しくださっているのだと思わせて頂きます。そして、その大本は、「真因」というお書初めで示してくださった様に、「悟りに至る真実の原因は、みんな一人ひとり、自分自身がもっているんですよ」ということでした。幸せになるのも、不幸せになるのも、自分自身が選択して決めていくことなのですよ!その真因としての自分の自覚と感謝をしっかりともって、謙虚に少しでも人さまのためにさせていただくことが大事なのですよ!と教えて頂きました。
 その様な意味で、教えを伝える布教伝道により一層力を注いでいける私たちでありたい!と思わせて頂きました。

 今朝、御供養の後に今日一日のお誓いのことば、「明るい気持ちで無事にこの日を迎えさせていただいた感謝を呼び起こしましょう。」を読ませていただきました。
 一日を迎え、また新たな一カ月のスタートです。今日、本当に明るい気持ちで無事にこの日を迎えさせていただいた感謝を呼び起こしていこう、それが、この月の初めの一日の大事な心構えですよと教えていただいたような気がします。
 本当に、一日一日、私たちは、過去も未来も生きられない、今しか生きられない。だからこそ、目の前にあること、今日一日の出会い・ふれあい、一つ ひとつのご縁を大切にしていく。そんな中で、精一杯、この教えに出遇えた悦びを伝えていくということが私たちにできる慈悲の実践、菩薩行としての一番大事なことだと教えて頂いています。
 また、しっかりとその思いをお互いさまに深めながら、布教伝道に向かっても感謝の心でさせていただく、そんな一人ひとりでありたいなと思わせて頂きます。
 また、今月も皆さんとともに、明るく、楽しく、ありがたく修行させて頂きたいと思います。どうぞ、よろしくお願い致します。     合掌

齋藤教会長のご講話を聴かせて頂いて

 「させていただく」ということばの持つ深い意味を学ばせていただくことができました。「おかげさま」、「ありがたい」を忘れず、まず、形から、くり返し「おかげさまで、させていただけることがありがたい」と口にしていき、心からそう言える自分になれるよう、修行精進させていただきます。ありがとうございました。
                                          文責者    Y . F


朔日参り(会長法話) | 12:00:00 | コメント(0)
『佼成』会長法話 平成29年4月号
会長法話「時間の浪費」を拝読して

齋藤教会長講話の要旨

 今月は会長先生より、「時間の浪費」というご法話を賜りました。皆さんとともにかみしめさせて頂きたいと思います。

【 大調和の中で 】
 私たちは、たとえば一日じゅう寝転んで無為に時をすごすことを、時間のむだ遣いといったりします。わずかな時間も惜しんで何かに打ち込む。それが有意義な時間の使い方であり、時間の浪費は人生のむだに他ならない、と。
みんな平等に、一日24時間与えられている中で、むだな時間を過ごしてしまうと、私たちは時間の浪費、殺生をしたと思ってしまいます。

「毎日を最後の一日だと思って生きなさい」とは、古代ローマの思想家・セネカの言葉にあるように一瞬一瞬、むだにしないような心がけで日々を送ることが大事だと昔からいわれています。
 ただ、時間の浪費ということを天地自然に照らして考えると、時間そのものに縛られない、もっとゆったりとした大らかな視点がありそうです。
 仏道とは何かを著したある本に、「日常の起き臥しは、すべて神通妙用と会得する」とあります。


 毎日の生活は不思議な作用の連続でなりたっていて、そんな不思議で自在な活動によって保たれている大きな調和の世界に、われわれは生かされているのだというふうに見ていくと少し違ってくるようです。
 
 宇宙が誕生した不思議。その宇宙で、生命体が存在するための要素を具えた惑星・地球に、人間として命をいただく不思議。そしていま、天地自然の大調和の中で行かされていることの不思議…。・・・
 何もせずに寝転んでいる姿は怠けているようにしか見えないかもしれません。


 寝転んでいる姿を怠けていると見るか。仏法的に見ると、本来すべての現象は、無駄なものはないとなります。まさに見方でありますから、次に備えて、休養しているとプラスに見ると、有意義な過ごし方に見えるわけです。

 欽司郎先生が「父の背中」のご著書(P44~)の中で、書いておられますが、大事な人と会う約束をされていた開祖さまが、お昼休みに居眠りをされていた。寝てていいんですか?の質問に開祖さまは次のように答えられた。大事なお客さんに会うために一番いい顔でいたい。そのために万全の態勢を整えて休息をとっているのだ、と。返す言葉もなく、「さすが、親父!」と心の中で叫んだという内容です。そんなお父さんの言葉から父の偉大さを学んだという話がありました。

 仏法の本質からすれば、人も物もすべての現象も、どれ一つとして、むだなものはないと見えてきます。
 会長先生の年頭ご法話で、私たちは宇宙の一切合切のお陰さまで生かされているとご指導頂きました。自分で整えたものなど何ひとつない、すべてがはからわれている世界だ。そのことがしっかりと認識できると、悩んだり、苦しんだり、争ったりすることはないのです。すべての現象がむだなものはなく、いま必要があるから現れてきて、縁にふれていると神仏の大いなるはたらきを感じとることができるのです。
 
【不思議を観じよう】
 調和の世界に住む私たちにとって何が「時間の浪費」といえるのでしょうか。
私たちはみな「この世に願って生まれてきた」と法華経にあります。しかも、それは、多くの人の幸せのためにと説かれています。つまり、私たちは調和の世界の一員として、みんなが幸せに生きられるよう、その調和を保つために生まれ、かつ生かされているということです。すると、人を傷つけるような言葉や態度、自分さえよければいいといった身勝手な行ないは、何よりもむだな時間の使い方といえないでしょうか。こういう時間の浪費は「命のむだ遣い」とさえいえましょう。


 自分に与えられている役割、自分にしかできない尊い役割がある。だからこそこの世に命を授かって、生かされている。その私たちが自分の大切な役割を認識しないで、自覚しないで人を悩ませたり、傷つけたりする行動をとることが、まさに自分自身の命のむだ遣いだと受けとめることが大切ですと確認をして頂きました。

「人生の無常を痛感すると、いま生きている有り難さがはっきりわかる。その自覚が精進の心を起こさせる」と学んだことがあります。自分がいま生きていることの不思議と、有り難さを自覚しないでただ漫然とすごしているために、私たちは調和を損なうような行ないをしてしまうのかもしれません。

会長先生がおっしゃっているように、自分がいま生きていることの不思議、生かされていることの不思議と有り難さ、「人の生を受くるは難く、やがて、死すべきものの、いま生命(いのち)あるは有り難し。」本当に命のあることが有難い、感謝の出発点だと教えて頂いたわけです。

道元禅師は「生死流転する自分の身心を省みて、自分よりも他の人が先に幸せになるようにと願う菩薩の心を起こしなさい」と書き残しています。無常、さらには絶妙のバランスでこの世を成り立たせている天地自然の不思議さを観じたならば、ともに調和を築くもの者として、お互いに尊重しあい、仲良く生きなさいというお諭しでしょう。

 日々、いろんな変化の中で、また、様々な出会いの中で、常に、目の前のふれあいの中で起こる縁を通して、今自分にできることをさせて頂く。すべてのものとの調和、その人との調和、その人を喜ばせたり、そのことをよりよくするために自分が努力する、常に調和が保たれるようにと努力する、そんな生き方こそが大事な生き方なんだということを確認して頂きました。
 それが、まさに「天上天下唯我独尊」、われ、ひとり尊し、尊い存在としての自分の役割を果たしていく、そんな気持ちになることが大切なんだということであります。
 草花を愛で楽しむ、春を迎える中で、あらためて命の不思議さや無常というものを観じ、しっかりと受けとめて、今目の前のことに精一杯生きる。命をかけて、一瞬一瞬を生きる。そんなことの大事を知ることがこの季節、今大切な時を迎えている私たちですよと、そんなふうに確認して頂きました。
 あらためて、お釈迦さまの誕生のおかげさまで、仏教の尊い縁に出会えている私たち、そして、開祖さまのお陰さまで、この法華経の教えをよりわかりやすく、また、日常生活の中で実践できる教えとして頂戴している私たち。そのことを繰り返し、繰り返し学び、法座という場所で毎日のように尊い教えを繰り返し確認できる機会を頂けている。そんな中で自分を常に見つめながら、また教えに照らし合わせながら、しっかりと自分の役割に気づいて自らの足で自立した信仰者として、まさに自灯明、法灯明の歩みをしていくことが大事であるということをかみしめさせて頂きました。
 何よりも大事なことは、こんな尊い人間としての命を頂いている私たちの役割は少しでも人さまが幸せになるように、この教えをお伝えしていく。創立の月に続いて、教会発足の4月だからこそ、感謝をあらわしていく月であり、その実践行として、教会一丸となって、お導き・布教伝道に取り組ませて頂きたいと思わせて頂きます。今月もどうぞ、よろしくお願い致します。 合掌

齋藤教会長のご講話を聴かせて頂いて

 時間の浪費というご法話のタイトルを見た時、自分自身の日常の時間の使い方を指摘されているように思いました。しかし、そんな表面的なことではなく、大事なことは、自分がいま生きていることの不思議と有り難さを自覚し、どう命を使っていくかということだと気づかせて頂きました。ありがとうございました。
                    文責  Y.F


朔日参り(会長法話) | 12:00:00 | コメント(0)
『佼成』会長法話 平成29年3月号
 会長法話 『肯定的か、否定的か』 を拝読して


齋藤教会長ご講話の要旨

佼成ニュースで涅槃会を振り返らせて頂き、自灯明・法灯明、一人ひとりが法を灯火としながら、拠り所としながら、しっかりと自らの足で立っていく、歩んでいくことを確認させて頂きました。また、年頭ご法話で会長先生は、「過去でもない、未来でもない、今をしっかりと丁寧に、心を込めて一所懸命に生きることだ」とお話し下さいました。創立の月を迎えて、皆さまとともにご法話をかみしめさせて頂きたいと思います。


 【 前向きの力がわいてくる 】
人は、年齢とともに体のあちこちに支障がでてくるようです。私も体の痛みや、それにともなう若干(じゃっかん)の不自由を味わっていますが、そうした現実からいくら逃れ(のが)たいと思っても、逃れ(のが)ることはできません。


会長先生ご自身が坐骨神経痛で痛い日々を過ごされていましたが、随分良くなられて、聖壇上での足の運びも前よりもスムーズになられ、だいぶ痛みもやわらいできたというお話を伺いました。

 

体の支障だけでなく、私たちは自分の思い通りにならない現実を不満に思い、マイナスのこととして見てしまう傾向があるようです。

 

例えば雨ひとつとっても、雨が降れば野菜農家にとっては恵みの雨だと受け止められるが、今日たくさんの洗濯ものをしようと思っていたり、観光する人にとっては恨みの雨になってしまう。雨は何の考えもなく降る時は降っているし、降らない時は降らないのに、我々は勝手に自分の都合で不足に思ったり、有り難く思ったりしているのです。心は自分の勝手のいいように働き、すべての現象は自分の心が作り出しているんだということです。

 

コップ半分の水で教えて頂いたように、コップの中に半分水があることを「半分しかない」と否定的で見るのか、「半分も入っている」と肯定的に見るのか、そして「誰かが私のために」と感謝で見るのか三通りあるのだということであります。それを選択しているのは、常に、コップの中の水ではなく私たちであり、見ている側、感じている側がその現象を作っているのです。

 

自分が辛かったり苦しかったりしたときは人さまのことをやってごらんと言われたことがあったかもしれません。人さまと触れ合っていると、苦があるのは自分だけではなくて、大変なことがたくさんあることが見えてきます。

私は、「この体の痛みは、同じような痛みをかかえる人を思いやれるいい体験だ」と受けとめています。病気や怪我はつらく、ときには理不尽に思えますが、それを肯定的に受けとめれば、その瞬間からいま・ここの苦しみや悲しみが和らぐばかりか、のちの人生の充実につながるエネルギーが蓄えられると思うのです。

 

今までに味わったことがない痛みを感じているということは、それが治って普通に暮らせるようになったら、今までに感じたことのない有り難い、幸せ、喜びを感じるんだと、痛い最中に楽しみにしているんだという受けとめかたが出来る会長先生ってすごいなぁとあらためて思わせて頂きます。現実の苦とか困ったこと、マイナスに思えることからいったん離れて客観的に見る。否定的ではなく、少し肯定的に眺めて見ようと努力してみると、様々に変化していくんですよということを、ご自身の体験を通しながら確認して頂きました。

 

開祖さまがよく、困ったことが起きると「いよいよ楽しくなってきた」と言われるのが真言だというお話もありましたが、それもまさに、未来をより充実したものに変えていくエネルギーに切り替えられている姿だったのではと思います。

 

【 おおらかに 】

ものごとを多面的に見ると、どれほどつらく苦しいことのなかにも、必ず「有り難い」と思える要素が見出せます。なぜなら、この世に無駄なものは一つとしてないからです。

 

すべては仏のはからいと受けとめていくことが大事です。我々は何一つとして自分がはからったものはない。親から先祖からこの命を受け継いで生を受けた。そして、その後もいろんな人のお陰さま、宇宙の一切合切のお陰さまで生かされている。すべてがはからいであり、今必要なものがちゃんと整っているんだと、必要があるから触れているんだと。まさに縁起の法則から言えば、すべては無駄なものは何もないんだということです。今、この瞬間が一番有り難い瞬間なんだと本来は思えないといけないわけであります。

 

私たちが見たり聞いたり経験したりすることはすべて「肯定、肯定、絶対肯定」する以外に、受けとめようがないということです。どれほどつらいことも人生を豊かにする賜り物であり、すべては肯定すべき感謝の対象にほかならないのです。

 

すべてのことがあるがままに尊い仏性、仏の現れであるということであれば、それは全て肯定すべきものであります。ですから、不平不満や愚痴や不足を言う対象ではないのであり、全てが感謝できるものに変わってくるはずです。すぐに有り難いと感じられる人ばかりではなく、気付く時や度合いは違っていいのです。それが見えるようになる時はきっと来るのですと確認して頂きました。

 

 

ものごとを肯定的に受けとめられないときに、自己をふり返るポイントをおさえてみましょう。人を否定する気持ちが拭えないときには、「やさしさを忘れていないか」。現象を肯定できないときには、「素直さを失っていないか」。この二点です。自分の思い、つまり我でものごとを見るとき、人はやさしさや素直さを見失いがちなのです。

 

ものごとを肯定して見るとは、何事に対しても大らかに楽々と生きるということです。まさに開祖さまの「一乗大らかに、夢、堂々」ですね。肯定的な見方と否定的な見方は同時に存在するわけですが、どちらが幸せかはこのことからも明らかですよね。そして、さらにそれを感謝で受けとめられることが最高の生き方ですと教えて頂いています。

 

今年の年頭ご法話で「有り難し」「有ること難し」その根本は、まず人としての命を今この世に生を受けているということが、何よりも尊く有り難いこと。何もなくても命があるということに感謝できるということが究極の仏さまの教える、お釈迦さまの教える幸せの境地であると教えて頂きました。

また、そのことを受けて、「真因」―悟りに至る道―は我々一人ひとりが内に持っている。真実の原因としてちゃんと持っている。そのことにどう気付くか、肯定的に見るのか、否定的に見るのかで違ってくることを確認して頂きました。

 

思考の三原則①目先に捉われないで長い目で長期的に見ることが大事②物事の一面だけでなくてできるだけ多面的に全面的に客観的に観察する③枝葉末節、言葉や態度にこだわることなく根本的に見ることが大事です。

3月という創立の月に、開祖さまが一人でも多くの人に幸せになってもらいたいというその御心をしっかりと、私たちが我が願いとして菩薩行―導き・手取りに心を向けていくのが大事な役割だと思います。

 

今月も明るく、優しく、温かく、そして明るく、楽しく、元気よく菩薩行の実践をさせて頂きたいと思います!!どうぞよろしくお願いいたします。

 文責者

 私はしょっちゅう否定人間になり、不平不満や愚痴を言ってしまいます。でも、その奥の本当の私は、大事にしたい、丁寧にしたい、みんなの幸せを願っている心があるんだと思わせて頂きました。有り難うございました。     Rie



朔日参り(会長法話) | 10:56:16 | コメント(0)
『佼成』会長法話拝読(平成29年2月号)
会長法話「気にしない人」を拝読して   ( 2月1日 )

齋藤教会長ご講話の要旨 
 早いもので、1カ月たって、2月を迎えさせて頂きました。節分を過ぎると九星の上でも新しいスタートとなります。何かワクワクするような、そんな瞬間かなと思います。十日間の寒修行も無事終わりました。それぞれ、テーマ、目標をもって取り組まれたことと思います。
 繰り返しになりますが、今年の年頭ご法話、「有り難し」を会長先生より頂きました。一人ひとりが、今頂いているいのちの尊さに気づいて、そのことが有り難いと思える。その様な修行精進をしていくことが大事であり、日常生活の中で、たくさん感謝やおかげさま、ありがとうを表現していこうということであります。そのためには、「地道に、淡々と」歩んでいくことが大事で、自然と一体である我々一人ひとりが、まさに自然の如く淡々と、なすべきことをなしていき、積み重ねていくことが大事だということを1月のご法話でも学ばせて頂きました。
 2月は「気にしない人」というご法話を頂きました。

【 すべては仏のおはからい】

 我々はとかくいろんなことを気にします。日常の中で、気にしないことの方が少ないのかもしれません。そして、気にする必要のないことや、気にしても仕方のないことにまでとらわれて、悩んだり、苦しんだりします。人からの評価やうわさ話にもついついふり回されていらいらしたり、起きてもいないことを心配してしまいます。

 ところが世の中にはそういうこととはまるで無縁であるかのような人がいます。それは、たとえば、ものごとに頓着しない大らかなイメージの一休さんや良寛さんです。逸話で知る限り、人から悪口をいわれても気にしない、くよくよしない、悩まないといった羨ましい生き方に思えます。
 この二人と私たちの違いはどこにあるかを考えてみましょう。名誉や利得といった世俗の価値観にとらわれていないことです。私たちはつい権威や世俗の価値に照らして人と自分の評価を比べさらにはものごとを損得勘定で判断しがちです。
 仏教では、出会う人も、身の回りで起きるできごとも、すべてが、私たちに大切なことを教える仏のはからいだと教えています。ものごとをそのように受けとめると、優劣や序列や損得はありません。そういうことにとらわれる必要もないのです。


 仏教がしっかりわかると、仏さまのはからいであると受けとめられ、悩んだりする必要がないのですね。だから、一休さんや良寛さんは、教えをちゃんとわかっているから、すべてが有難い存在だと映っていたのでしょう。そこが私たちとの違いかもしれません。

 昨日、たまたま本を読んでいたら、インドで貧しい人のために生涯を捧げられたマザー・テレサの言葉を目にしました。「ありのままの自分を受け入れることができれば、どんな悪口もあなたを傷つけることはできないし、どんな称賛もあなたを思い上がらせることができないでしょう。」何かとても開祖さまの、また仏教の教えにあてはまり、真理は一つだと思わせて頂きました。すべては仏のはからいと受けとめることが大事だと確認させて頂きました。

【 気にする必要のないこと 】

 私たちはうわさ話も、将来に対する不安も、今ここで気にしてもある意味ではどうにもならないことを気にしてしまい、悩み、その結果、不安になり、不満をかかえこんで、苦しみます。会長先生はアニメの一休さんの例をあげてくださっています。

主人公の一休さんは、周囲で問題が起こると「気にしない、気にしない」「慌てない、慌てない、一休み、一休み」などと言って心の転換をはかっていました。不安や不満が募ったら、アニメの一休さんのような自分なりの「真言」を唱えてみてはどうでしょうか。そうして心の中に立ちこめる不安や不安の霧を払うのです。

自分なりの真言は何かなと考えた時、会長先生から教えて頂いている「今、ここ、われ」を思い起こしました。今、私が置かれている場所で、私自身がどうあるべきか、これが私の真言ではないかと思いました。自分なりの真言を日々の生活の中で意識して使っていくと日々の生活が変化していくのかなと思います。

一休さんや良寛さんのような「気にしない人」に本質的に変われたら、いつでも安心して生きることができます。幸いなことに、本誌を手にされているみなさんは、二人が求めたのと同じ仏の教えに縁ある方々です。諸行無常、、諸法無我、一切皆苦といった仏教の根本とともに、すべてを仏のおはからいと見ることや自らを深く省りみることを繰り返し学ぶことで、「気にしない人」に自ずから変わっていくのだと思います。

仏さまの教えにご縁があるということは、私たちも一休さんや良寛さんと同じように、ラッキーなのです。(人としてのいのちをいただき、教えに出遇えている)今頂いている縁を通して繰り返し学びながら、わが身をふり返ることによって、本質的に変われるのです。今、目の前にいる人との縁を大事にし、もっと、もっと「いま」を大切に生きましょう。今を大事することが「気にしない人」「とらわれない人」になるためのキーポイントであり、そのための具体的な方法として「人を思いやる」実践をすることがキーワードです。毎日、ありがとう、おかげさま、有り難しをたくさん表現しましょうとご指導いただいたわけですが、人さまを思いやる実践をしていくことが大切ですよと具体的に教えて頂きました。

 すべて仏のはからいと受けとめ、気にしない人になる。そのために、人さまのための菩薩行の実践を決定していく涅槃会の月だからこそ、そんな一人ひとりになっていくことが大切であると思わせて頂きます。2月のスタートにあたって皆さまとともにそのように決定させて頂きたいと思います。
 どうぞ、今月も1か月間、みなさんとともに、明るく楽しく精進させて頂きたいと思います。
 
齋藤教会長のご講話を聴かせて頂いて
 私自身、仏さまの教えにご縁を頂いていることに、心から有り難いなと思わせて頂きました。そして、今、目の前にいる人との縁を大事にし、いまを大切に生き、日々、人を思いやることの実践に精進させて頂きます。   ( 文責  Y.F ) 


朔日参り(会長法話) | 12:00:00 | コメント(0)
『佼成』会長法話拝読  平成29年1月号
 会長法話「地道に淡々と」を拝読して   ( 1月10日 )

  齋藤教会長ご講話の要旨
 一月を迎え一日には初詣り、七日には御親教を頂き新しい一年がスタ―トしました。
御親教では、会長先生が広大な宇宙の話しをしてくださいました。一人ひとりが宇宙を作っている。人間がいるからこそ宇宙がある。一人ひとりの役割の尊さ、大切さ、存在の大きさを確認させて頂いた御親教でした。
 来年は、教団創立八十周年という節目を迎えます。開祖さまが立正佼成会を創立してくださった、お心や因縁、又、私達の使命をかみしめ、一人ひとりの尊い存在や役割を認識し歩んでいく一年にしていく事が大切だと思います。

【 大自然に学ぶ 】

 「一年の計は元旦にあり」
 私達は、新しい年が始まると新たな目標を決めていきます。
それも具体的なテーマ、短期的、中期的、長期的に大きな視野で、身近なところで目標をかかげる事が大事です。
 広島教会は、今年は、  笑顔の花を咲かせましょう
               ~まず私から 明るく 優しく 温かく~
                 感謝をことばで伝えよう!
        と、新たな心構え、目標をかかげさせて頂きました。
 今年はこんな年にしようと新鮮な気持ちでスタートしますが三日もたつと忙しさに紛れて忘れてしまう。それは何故か?
 努力を積み重ねていく過程が大事なのに、ついつい私達は結果、成果にとらわれてしまい新たな事に取り組む余裕のなさがあるのかもしれません。

 「元日の雪といへども卸さねば」(広中白骨)の句が示すように、どのようなときでもなすべきことをていねいに行なう心のゆとりと落ち着きをとり戻すことが、いま私たちには必要なのではないでしょうか。時間に追われ、効率や成果にふり回されることなく、地道に、淡々とやっていく。そこに人間らしい生活やほんとうの幸せがあるように思うのです。

 元日だからなにもしないのではなく、雪が積もっていれば、元日であっても雪おろしをする。目の前にあることにしっかり心を向けていく。会長先生は、いつも“今、ここ、われ”と教えてくださいます。結果ではなく努力の過程が大事です。
今年の箱根駅伝では、青山学院が三連覇をしました。途中一人フラフラになりながら、完走しました。そこでタスキが途切れていたら三連覇はなかったわけです。一人ひとりが自分の役割をコツコツと淡々と取り込んでいった事で連覇につながったのです。地道に淡々と、その過程をしっかり積み重ねていく事が大事なんだと思います。
 なにごとにも急がず息まず、循々と行なっていく。これが、物事の正しい順序次第。そこに人としての成長があるのだと思います。

 「ゆっくりとゆっくりと柿干柿に」(岩崎俊)
 自然のはたらきに重ねて私たちの生き方を考えていく。干柿も少しずつ少しずつ成熟して甘味を増していくように成熟した人間の味わいは、小さなこともおろそかにしない、地道な営みによって育まれます。今なすべき事を知って自覚して取り組み、目の前のことに100%、まさに干柿が熟すようにその歩み、営みをしていく事が人間として成長していくことだと確認させて頂きました。

「天地の和して一輪福寿草さくやこの花幾代経るとも」(二宮尊徳)
天地自然は淡々と時を刻み、やがて真理のはたらきが和するとき、花はおのずから開く。
自然と一体に地道に淡々と生きることの大切さを示されています。

 “大自然に学ぶ”
大自然と調和していく。
私たちが修行していく心構えも、大自然に学ぶが如く、成果にふりまわされることなく、地道に淡々とやっていく。目標にむかって一日一日、一瞬一瞬を確実に、着実に積み重ねていく事が大事だと思います。

【 志を立てる 】

 道元禅師は、「仏道を学ぶのに才能は必要ありません。志を発して自分の分に随って学道に努めれば、必ず仏法を得ることができます」といいきっています。
 目標をもって、テーマをもって結果や成果にとらわれることなく、自分らしく自分の身の丈にあった。その中で学び、地道にコツコツと繰り返し実践していくことで“必ず”仏法を得ることができるんだと言い切ってくださっています。

 ただし、「欣求の志の切なるべき」つまり、つねに、そして繰り返し求める気持ちが大切だというのです。あれをしよう、これをしようと一念発起したつもりでも、そのもととなる「切実な志」がなければ長つづきしないということでしょう。

 最近ノーベル賞授賞式がありました。地道な研究をコツコツ積み重ねてきたことの成果。自分の求めた道を歩みつづけていく。知らないところで、コツコツ積み重ねていく。

 志に随っていま目の前にあることの一つ一つにていねいに向きあえば、その歩みはたとえ地道ではあっても、必ず実を結ぶということです。また、志があればものごとに一喜一憂しない余裕が生まれるので、落ち着きのある淡々とした生き方にもつながるはずです。 
 志に基づく実践といっても、自分の身の丈にあった、自分らしい歩みを毎日毎日歩みつづけていく。具体的な例として…
 道端のゴミを拾う、「足るを知る」を心がける、三つの実践として「朝のあいさつ、ハイの返事、履物を揃えるというのもいいでしょう。」身近でできることを地道にこつこつと、できれば目立たぬように淡々と実践することなのです。
 開祖さまは、電車の中で汚れていたトイレを掃除されていました。佼成会では陰徳を積むことを教えて頂いています。
 お当番さんも仕事をされている人が、朝早く来て掃除をし、皆さんが来られる時には、帰られている。自分のできる、身の丈にあったできる事をしていく。積み重ねていく。
 そういう人は、満たされた一喜一憂しない余裕と落ち着きのある生き方をされているのだと思います。

 “今、ここ、われ”
目の前におきている事は、すべて仏さまが必要あって出してくださっているはからい事、ご縁であるなら、その一つ一つを丁寧に縁を結んでいく。取り組んでいく。地道にコツコツと淡々と。志をもって念じつづけて、思いつづけて自分らしく取り組んでいく。
そんな地に足のついた一年間を歩ませて頂き、そして楽しい嬉しい有り難い一年だったとしみじみ思えるような、積み重ねをしていきたいと思います。

  齋藤教会長のご講話を聴かせて頂いて

「志に随っていま目の前にあることの一つ一つにていねいに向きあえば、その歩みはたとえ地道であっても、必ず実を結ぶ。志があればものごとに一喜一憂しない余裕がうまれ、落ち着きのある淡々とした生き方にもつながる。」と教えて頂きました。今年の私のテーマは“ありがとう。おかげさま。をことばに出して伝える。”です。今、ここ われの心で、目の前の人、出来事と大事に取り組んでいきたいと思います。
                              文責  T . M
                                                                                                              


朔日参り(会長法話) | 17:00:00 | コメント(0)
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